2008年12月7日日曜日

源氏物語の1000年

横浜美術館で開催されていた、特別展 源氏物語の1000年、に行ってきた。

日本人は、この1000年間、本当に源氏物語を慈しみ、その思いを様々な形で表現してきた。

その形の数々を、この展示会で見ることができた。

源氏物語の展覧会というと、いつも”源氏物語絵巻”がその中心におかれるが、今回はその周辺にある様々なものが取り上げられており、むしろ、源氏物語に親しみを感じる内容になっていた。

今でいうと文庫本ほどの大きさの紙に記された、源氏物語の写本。何度も何度も読まれたに相違ないのに、大切にされてきたせいか、いまでもとてもきれいだ。

そこには、ほんとうに小さな字で、物語の内容が描かれている。印刷でなく、それを一文字一文字描いた人たちの苦労が手に取るようにわかる。

でも、それを記した人たちは、それを苦労とは思わなかったに違いない。自ら物語を楽しみながら、それを読む人たちも、それを楽しむことを願いながら、筆を走らせたに違いない。

会場には、多くの源氏絵も展示されていた。

今の私たちには、そうした源氏絵には解説が必要だ。これは明石の巻とか、空蝉の巻とか、説明がなければ、よほど有名ば場面でなければ、絵の内容はわからない。

しかし、かつて、そうした源氏絵を日常的に目にした人々にとっては、そうした解説は必要なかったに違いない。

かれらには、その場面、描かれている人々の衣装、風情から、それがどの巻のどんな場面かが、容易に判断できたに違いない。

そうはいっても、現代人も源氏物語は大好きだ。どんな小さな本屋でも、源氏に関するエッセイや現代語訳など、なんらかの本を見つけることができる。

西洋でいえば、聖書やギリシャ神話にあたるのだろうが、源氏物語は、宗教でもなんでもない、単なる恋物語である。

そうした作品を1000年にもわたって、慈しみつづけたということが、日本人とは何であるかを、如実に物語っているかもしれない。

アンドリュー・ワイエス展

渋谷の文化村で行われていたワイエスの展覧会に行った。

展示内容は、完成品は少なく、試作を中心とした内容で、完成品に至るワイエスの制作の様子がかいま見れ、興味深かった。

何気ない土の大地の絵をじっと見ていると、ワイエスの凄さが徐々に伝わってくる。

絵画には、たんに濃い茶色の土しか描かれていないのだが、見るものには、そこに、もっと大きなものが隠されているのがわかる。

それが何なのか、はっきりということは私にはできない。自然の神秘、神の気配、個人の奥底にある記憶・・・、人によってそれは違うのかもしれないが、確実に、表面には現れていない何かが、そこには感じられるのだ。

ずいぶんと前に、彼のクリスティーナを描いた作品を中心にした展示会に行ったことを思い出した。

そこには、一人の女性を丹念に描いているにもかかわらず、男性にとっての、女性という存在の神秘、あるいは、人間という存在の美しさ、悲しさ、儚さがあった。

この画家には、物事を単に表面的なものではなく、その本質まで見透かせる目と、それをキャンバスに正確に表現できる技術の双方が備わっている。

2008年9月20日土曜日

ジョン・エヴァレット・ミレイ展

渋谷、Bunkamuraのジョン・エヴァレット・ミレイ展を見た。

その嘆美主義的な女性画、愛らしい小さな子供の絵画は、自らの技術とその成功を誇示しているようだった。

若い頃から晩年に至るまで、小品から大キャンバスに至までの充実した展示振りには圧倒された。

非常に味の濃いソースの、フランス料理を味わったような1時間だった。

2008年7月27日日曜日

エミリー・ウングワレー展について

新国立美術館で開催されていた、エミリー・ワングワレー展を見た。

彼女の作品は、そのフレームに止まらない無限の広がりを持っている。無限の広がりの中から、ある特定の領域を切り取ったようで、それを見ていると、その周りにあるイメージを確かに感じる事ができる。

ジャスパー・ジョーンズらが、悪戦苦闘し、命を削って作り上げようとしたものが、彼女にとって純粋な形式で完成させられている。

パウル・クレーが、この世に存在しないものを、あたかも存在するかのように描く、といっていたものが、今、目の前にある。

彼女の作品は、抽象絵画などではない。それは紛れもなく、現実を描いている。

それは、自然が生んだアート、自然の中から生まれたアート。自然の一部としての人間によって形にされたアートだ。

彼女の作品は、現代音楽を思い起こさせる。始まりのない音楽、終わりのない音楽。ただその時の、その瞬間の音楽。彼女の作品についても、同じ事が言える。

日本のさまざまな意匠芸術。同じ花模様、ツタなどの無限の連なり。彼女の作品との共通性。

彼女の作品を絵画とのみ考えるべきではない。それは、彼女の言葉、文字、記憶、想い、あるいは、彼女そのものである。そしてそれは、芸術というものの、本質でもある。

彼女の描く線は、アラベスク、書道、ケルトの聖書などと通じる。

彼女は、何か、とてつもなく大きなものを描いている。それは、この世の全てのものと繋がっている。人は、その作品の中に、自分の中の根源的なものと出会う。